富士山 富士吉田(茅ヶ崎市民富士登山)


日付:2012年07月22(日)~23(月)
天候:快晴

参加:25人(10歳~77歳)
役員:渡部(CL)、彰治(SL)、高橋(B班L、投稿)、<茅ヶ崎市役所>青木、池田(A班L)、須田(C班L)
行程 富士吉田~鎌岩館(7合目)~富士山頂~御鉢廻り(一部)~富士吉田

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<https://picasaweb.google.com/110771324764284100517/2012072223_> 

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今回は参加者の野口さんから素敵な記録を頂いたので、そちらを掲載(公開用に一部編集)。

富士山に登ってきました

<出発準備>
6月のある日、ふと手にしたタウンニュース紙に「市民富士登山の参加者募集」の記事があるのが目が止まりました。自分のような山に無縁の人間が、いきなり富士に登れるわけがないと日頃思っていたのが、なぜかこの募集に参加してみようと心を惹かれたのです。
 そうだ、中学生になったばかりの孫を連れていこう、そういえば、妻も反対しまいとおもったのです。電話で申し込みの際、77才で登山経験なしでもいいですかと聞いたのですが、主催の茅ヶ崎山岳協会の方も別に不安な反応は全くなし。そのうち孫の父親も参加することになって、あっという間に計画は滑り出しました。
 登山道具もなにもありませんから、まず靴から調べに行きました。富士登山用というのがあって15000円位、ザックもそれくらい、防寒雨具なども揃えなければとなると結構費用がかさみます。インターネットで調べたら…ありました。富士登山用一式6点のレンタルが14500円。靴やザック雨具はもとより、ヘッドランプやスパッツなど知らない道具までついています。人生一度だけのことですから、レンタルで充分です。さっそく新宿の店に行ってフィットしてもらって、翌日には家に一式が届いて心定まりました。

<7月22日(日)>
 参加者25名、最高年齢者は私、若い方は小学4年生、男女も半分ずつで、茅ヶ崎体育館を出発
 昼頃に吉田口浅間神社に参拝。六尺棒を頂戴しました。

 富士登山の興味は、富士講を調べたいことからも来ていましたので、この神社や吉田口の富士講や御師の家も興味津々でした。特にこの浅間神社は、武田信玄によって浅間権現社とされるまでは、諏訪神社でした。元社の諏訪社も健在で並存して、主祭である火祭りの時も重要な役回りをしています。この富士と諏訪の不思議な関係も興味のひとつです。ここで持参の弁当を食べていると今も健在の富士講の登山者が中野区から白装束でやってきました。


 午後2時半、バスは終点の吉田口五合目に着きました。にぎやかな町のようですが、ここはすでに標高2300m。ここから歩いて2日かけて1400mを登るというわけです。

茅ヶ崎山岳協会はここで皆を集めて、体操をし注意事項を述べ、3班編成にわかれました。我々はB班リーダ高橋のもとで、まず七合目を目指して歩きだしました。

 1時間も立たないうちに服装の不具合が出てきました。富士山は寒いという気持ちがあったので、かってカザフスタン・バイコヌールの宇宙基地に真冬に行った時のダブルのズボンを履いていったのです。寒いどころか、すぐ汗だくだくになってきました。おまけに天気予報をなんども確認してきて雨は降らないはずなのに、よこなぐりの雨になってきたのです。ダブルのズボンは下の層まで濡れてきました。歩きにくいことこの上なしです。リーダは見かねて、休憩のときズボンを替えさせてくれました。彼が貸してくれた一重のレインスラックスです。助かりました。

 全行程これを使い続けました。このあともずっと富士は寒いと思うのは間違いのもとだとわかりました。ちょっと厚着をすると汗だくだくになります。
 雨が降ったり止んだり、雲が動く中を、2時間半登り続けて、今日の宿の七合目鎌岩館にたどり着きました。まだ標高2790m、それでも500m近くを登った勘定です。

 山小屋など、はじめての経験ですから何もかも珍しいのです。蚕棚のような2段ベットの狭さには驚きました。荷物も身体も自分に与えられた50cmの幅の中に収めなければなりません。ザックなどは頭の上にぶら下げるのです。その窮屈なこと、これはアウシュビッツか!と思いました

 とうとう我慢できず、這い出して食堂となる広間兼廊下に寝袋を持ち出して横になりました。新しい客が来るしトイレに行く人があり常に人が通るので、とても寝れるところではありません。でもすぐ2時には起きるので、それまで横になって休めればそれでいいと覚悟しました。

<7月23日(月)>
 1時半起床、外に出ると満天の星空、星の大きさと数の多さはただものではありません。多すぎて星座が見つからないのです。弁当を持たされて暗闇の中の岩だらけの登りに出発です。

ヘッドランプが必需品であるわけがわかりました。片手に六尺棒を持って、片手で岩や鎖に縋ればランプなど持てる訳がないし、なければ足元も見えないのです。前日で懲りたにもかかわらず太陽が出るまでの富士は寒かろうと、娘が持たせてくれた、ネックカバーや耳あてまでしたのが失敗で、すぐ汗だくになり全部外すはめになりました。
 3時半をすぎると空の星は消え、白白とした雲海が見え始めました。
 
 御来光をどこで見るかがリーダたちの課題のようです。もうこのへんにするか?もう少し登ろうといった会話が交わされていて、やがて4時半八合目の「太子館」という大きな山小屋にたどり着きました。予定の場所だったようで、ここまではそう遅れてはいなかったのです。雲海の中から八ヶ岳やアルプスの頭だけが見えます。東の空が雲が赤らみ始め、皆が弁当を食べながらそのときを待ちます。

 私自身は、日の出日没のシーンは相模の海で見慣れているので特別な感動は起きないのですが、見る機会のない人々には大変なことで、カメラを構えてその一瞬をとらえようとしたり、逆光のなかで記念写真をとったりして大騒ぎです。
 さて御来光が終わり出発の時に、リーダが私のザックを持ってくれるというのです。「これからが大変で、ともかく登ってもらうことが我々の目的ですから」とおっしゃるのです。実際ありがたいことでした。上りの岩場道で滑ることとザックの重みで仰向けざまに転倒しないかと不安になったことがあったからです。ここからは班の編成を再構成して、私とリーダともう一人の女性で班を再編成し、残りは先行組となりました。写真は私のザックを親亀・子亀のように担いてくれたリーダ率いるゆっくり組です。

 八合目から出発したはずなのですが、なかなか八号目から抜け出せないのです。新八合目とか本八合目、元祖八合目、ついに八合目半まであったようです。この辺まで来ますと上の方が見晴かせるようになります。はるか天井のようなところに豆粒のような人が動いています。でも不思議ともうだめだといった弱音はでませんでしたが、15分登っては5分休むといったテンポで、休憩のたび、水と酸素を飲み、甘いものを口に入れました。

 我らの組と前後して、ひとりのご老体と彼につきそう若者の二人組があり、我々より長く休み、疲労している様子でした。人ごとながら登りきることができるだろうかと心配しました。事実この登り専用道を下ってくる人をちょくちょく出会ったのです。下り道は別でここを普通は下ることはないとリーダは言っていました。やはり挫折した人だったのでしょうか?
  ひときわ険しい岩場も乗り切って、いよいよ鳥居をくぐりました。

 アメリカ人が仲間を待っていて写真を撮っていました。彼等は駐留軍の兵隊のようで元気一杯飛ぶように登山していきました。そして、あっけなく頂上が来ました。12時半でした。

 頂上の久須志神社(富士山山頂浅間大社奥宮)の前には先発隊の人がいて、何人かは、お鉢回りに出かけたといいます。孫たちもそのなかにいたようです。

 我々は30分休んですぐ下山だと告げられました。お鉢回りの連中を待っていては、遅れるというのです。え~下山でもおそくなるのか?といささか不審でした。
 ともかくも頂上おめでとうというわけで、家で心配している妻にも電話しました。頂上で携帯が通じるのです。久須志神社の社務所にいって、かねて聞いていたとおり、「77歳の登頂です。」というと、祝の神酒と記念の扇を頂戴しました。下図の写真の通りです。

 ちょうどそこへ途中心配していたあのご老体も見えました。無事登頂でした。聞けば彼も同い年の77歳、長崎からこられたそうでした。

 孫たちはお鉢を回って、無事最高峰剣ヶ峰の3778mに登ってきました。
 さてこちらゆっくり組は人数がふえて数名の組になって下山を始めました。途中お鉢に近づきました、噴火口が見え、その先はるかに3778mの最高峰が、お鉢の反対側にあるのを眺めて下山道に入りました。お鉢回り組より1時間早い下山です。

 須走口とは言うとおり、思わず走ってしまい、尻餅を突くようにできている道です。ひと足ごとにかかとを踏ん張らなければ滑ります。それだけ注意すれば、ほかは登りよりは楽だと内心つぶやきながら降りていきました。途中雪渓がありました。海から富士を見てもこれだけはくっきりと見えます。汚れていました。

 下っても下っても、まだ例の魔の八合目から抜け出せないのです。休憩をしていると連絡が入って、お鉢回り組がもうすぐ近くまで来ているというのです。1時間のハンディキャップをもらって頑張らなければと思っているうちに、次の休憩で追いつかれました。

 孫の解説によればこのつづら折りを54回繰り返すのだそうで、勉強してきたなと感心しましたが、まだ数十回あるとすればうんざりです。そして彼ら早い組にまたすっと追い抜かれてしまいました。そろそろ足が思うようには運ばなくなってきたようでした。やっと七合目に着きました。


 ここに公衆トイレがあります。ここまでくればあとは長いだらだら下がり道と聞いていました。しかしそこからは、すっかり遅れて一人旅になっていました。もう大丈夫と見たのか山岳協会全体のアンカーの人も行ってしまいました。これは大変なことになったぞと、気がつきました。途中山崩れ避難道のひさしがあってそこは高い降り階段になっています。下り階段に足が出ないのです。高い段差を降りると膝が崩れてしまうような恐怖があるのです。そこでやむを得ず避難道をそれて砂利道に出たとたん滑ってしまいました。今度は立てない!ホウホウのていで立ち上がると避難道の階段をらくらく行く元気なアメリカ人が "Are you all right?" と声をかけてくれました。咄嗟になんと答えたらと思っているうちに彼らも行ってしまいました。どうしようかとおもいながら、1歩づつ動いていったら、なんと道端にリーダが座って待っていてくれたのです。神様仏様、本当に救われたと思いました。ふたりでぽつりぽつり降りて、やっと六合目の安全センターまできました。中国人の観光ツアーの連中が騒いでいました。ここで休憩していた先発隊と再び合流したと思うともうさっさと出発。また二人となりました。迷惑かけといけないから、ここから観光用の馬があるので、それで五合目まで乗っていこうか?と相談しました。リーダは、なんとか自分の足で完全制覇しましょうと勇気づけてくれました。不思議なことにそこから緩やかな上り道が多いのです。下り道は恐怖でしたが、上りは足が普通に出てくれます。高橋リーダーは、「降りに使う足の筋肉は普段使わないからです。」と教えてくれました。最後の30分、彼との二人旅は話で気を紛らわせました、富士山信仰や縄文文化のことなど、最近の興味あることを話し続けました。彼も大変興味をもってくれたからです。
 そして4時、無事五合目のバスセンターに到着。孫と父親が着替えを持って待っていてくれました。

 終りはひどい状態でしたが、振り返ってみれば、この下りの1時間をのぞけば、とりあえず元気に富士登山できたのです。茅ヶ崎山岳協会の市民富士登山のプログラムは、「みなが登山できる」ということを第1の条件にずっとやり遂げてきた優れものであったのです。今年は55回目だったそうです。そしてなによりリーダの力と親切、彼の助けがあったからこそ出来た富士登山でした。
 
 下山の翌日には、前から外せない東京の会合の予定が二つもあり、だめかもと思っていたのですが、なんとか無事こなせました。足の痛みも幸い2日で消えました。鍛えていない身体ですが、まだまだ意外と頼りになる身体でした。
 
 今も天気がよければ、海岸から富士が見えますが、以前とは違い、「ああ、あそこに行ってきたのだ」と、何か胸がつまる思いで眺めています。


2 件のコメント:

  1. 楽しく読ませていただきました!
    同じく参加させていただいた河原です。
    富士登山では皆様に大変お世話になりました。
    きのうのことのようですが、既に懐かしくもあります
    (´・ω・`)

    わたしもたまたま目にしたfacebookの募集で
    フト参加を決めましたので、
    そういうものなのかも知れないなーと思っています。

    この度参加できたこと本当に良かったと思っています。
    素敵な想い出をありがとうございました(*´∀`)

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  2. 河原さん。
    こちらこそ富士山を一緒に登ってくれて有難うございました。
    まだ登ってから1月半ですが、自分は随分前のような気がします。

    facebookでの募集は初耳。
    茅ヶ崎山岳協会で、facebookを使うような人がいるとは驚きです・・・(笑)。

    是非是非、また一緒に登りましょう!

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